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伝説の勝負師 ジョージ・ソロス

ジョージ・ソロス氏の成功哲学からは、学ぶことが多い。

Vol.1 伝説の勝負師たち W.U.S

伝説の勝負師たち 【Vol.1】 ジョージ・ソロス

イングランド銀行を打ちのめした男――これは、1992年のポンド危機の際、あざやかな手際で100億ドルを稼ぎ出した経営者、ジョージ・ソロスへ捧げられた異名だ。その後もソロスは世界のあちこちで話題をふりまく成功者となる。今やビジネスの世界では知らない者はいないといわれる彼の、成功までの道のりをここで紐解いていこう。

父の期待と哲学との出会い
ドイツにナチス党が結成された1930年、ソロスはユダヤ系ハンガリー人としてブタペストに生まれた。弁護士の父から常に「金のために働くな。金は手段でしかない。社会に影響を与える人物になれ」と育てられたという。しかし1944年、ナチスのハンガリー侵攻によって平和な日々は破られる。

当時14歳の少年だったソロスに、父は、「異常時には通常のルールは適用されない」ということを教え込んだ。ソロスの父は、第一次世界大戦中のシベリアの強制労働から生き延びた人物だった。法を遵守する立場の弁護士が、生きるためにはルールを曲げるのが必然だと息子に教え込んだのだ。一方、母は自己批判と自己抑制をソロスに教えた。この考え方も中年までのソロスのビジネスを支えたという。

「大物になれ」という父の期待に後押しされ、17歳でイギリスへ単身留学、ロンドン・スクール・オブ・エコノミーに入学する。ここで出合った、カール・ポパーの思想「開かれた社会(オープン・ソサエティ)」が、その後のソロスの思想を支えることになった。

ソロスによる「開かれた社会」とは、「人間は不完全な理解をもとにして行動をするため、究極の真実は手に入れることはできない、と理解した上で成立する社会」である。この考え方が、自身の投資方法を発展させる一因となった、と本人は語っている。

苦難のロンドンからウォール街へ
しかし、イギリスでの日々は彼にとって冬の時代だった。大学では成績もパッとせず、卒業後やっとついた仕事も冴えないセールスマンであった。その後、シティ(ロンドンの金融街)で証券会社に職を得るも、部署をたらいまわしになった結果、クビになってしまう。ただ、この会社で最後に担当した裁定取引の仕事、その経験をニューヨークの小さな証券会社が目をつけたのである。

1956年、26歳となったソロスは同社へ入社。ここから彼の躍進劇が始まった。国際裁定取引のトレーダーとして、石油関連株ではスエズ危機によって業界が低迷するのを察知すると、いち早くインターナル・アービトラージ(内部裁定)という新しい取引を始めた。彼は常に状況に応じて新たなルールをあみ出していく。その後の欧州株ブームにも初期から乗り、その確かな分析力から欧州投資ブームの先駆者の一人となった。

1959年にワーサム証券に引き抜かれると、J.P.モルガンやドレフュス・ファンドといった大手顧客を相手に、アナリスト兼トレーダーとして活躍する。しかし、1961年にはケネディ大統領により対外投資に対する利子平衡税が導入されたため、欧州株ブームが一気に去ってしまう。ソロスはワーサム証券を去り、アーノルド・S・ブレイッシュローダー証券へ。ここではアメリカの金融機関が処分したい欧州株を売り戻す仕事で業績を上げた。

そして1966年、ソロスはあるアイデアに着手した。会社の資金で10万ドルのモデル口座を作り、それを16分割してユニットごとに別々の株に投資する、というものである。顧客からのフィードバックも重視し、否定的な反応がある場合は再検討を重ねた。このモデル口座の運用成績は非常に良く、ソロスは会社にモデル口座を独立させた次のステップを提案した。それが「ファーストイーグル・ファンド」という名の小さな投資ファンドである。

これにソロス自身も投資を行った。ファンドマネージャーとして運用に当たると、1968年には資本金400万ドルのヘッジ・ファンド、「ダブルイーグル・ファンド」を設立。例えば、1960年代後半に端を発したコングロマリット・ブーム、REITブームの予測を立てて有望な対象に投資と投機を重ね、ブームが終わる前にはさっさと売り逃げするなど、独自の理論「ブーム(暴騰)とバースト(暴落)の再帰性」※1に則った投資による金融市場での実験を重ねていった。

最強の投資家への道
ソロスは社内でのヘッジ・ファンド運営の限界を悟った。そして1973年、彼はB社で出会ったジム・ロジャースとともに1,200万ドルの資金で「ソロス・ファンド・マネジメント」(後のクォンタム・ファンド)を設立。2人は、市場に流通する全てを投機対象に、限界までレバレッジを駆使して取引を行っていたという。

ソロス・ファンドの初期成功例として挙げられるのが、銀行株、防衛産業関連株の取引だろう。いずれも「開かれた社会」の思想に基づく市場とマクロ経済の分析、ロジャースの世論に流されない詳細な調査による仮説から成功を導き出した。さらにソロスは成功におぼれず自己をみつめ、改善策を常に考えていた。たとえ悪い事態が起きても軌道修正をスピーディに行い、損失を最小限に食い止めた。さらに、失敗を認めた時には市場から潔く撤退したことが、ファンドの成長を加速させたのだった。

1980年に2人のパートナーシップは解消されたが、「クォンタム・ファンド」をはじめ、5つのソロスグループのファンドは、81年初頭には最高資産規模の4億ドルまで成長。84~85年には「リアルタイム実験」と称する市場意志決定のプロセスを導入することにより、プラザ合意の時には、ファンドは前年比 114%の成長を遂げた。

88年になると、ポンド暴落の際に指揮をとったスタンレー・ドッケンミラーに経営権を譲渡し、ソロスは経営陣のコーチとしてアドバイスと収益分配の仕事を行うようになった。1969年の「ダブルイーグル・ファンド」設立から95年にかけて、ソロスは株主へ約35%年間収益を渡し続けたといわれている。この経緯が彼を「世界最強の投資家」といわしめた。92年のポンド危機をきっかけに、一気にソロスの名前が世界を駆け巡り、決して表に出ることのなかった投資家が自らメッセージを放つようになった。

彼は金儲けを人生の目標に設定しなかった。その底辺を成すのが自分の思想であり、それを発展させ実証するために「市場は格好の実験場所」だったとソロスは述懐する※2。彼の目的は、自分の目指す社会システムを少しでも実現することだった。90年代以降、成功者ソロスに経済政策のアドバイスを求める各国要人は後を絶たず、ソロスの言葉が市場を左右したこともある。ビジネスと支援。この2つの活動が、彼に「外交政策を持つ唯一の民間人」という賞賛をも贈ったのである。

※1、2……「」内の言葉はソロスのインタビュー著作『ジョージ・ソロス』より引用。
参考文献/
『ソロス』(マイケル・T・カウフマン著、金子宣子訳、ダイヤモンド社、2004年)
『ジョージ・ソロス』(ジョージ・ソロス著、日興證券株式会社監修、テレコムスタッフ訳。七賢出版、1996年)
『ソロスの錬金術』(ジョージ・ソロス著、ホーレイU.S.A・Pacific Advisory & Consultant翻訳、総合法令出版、1996年)
『ソロス:世界経済を動かす謎の投機家』(ロバート・スレイター著、三上義一訳、早川書房、1995年)
『グローバル・オープンソサエティ:市場原理主義を超えて』(ジョージ・ソロス著、榊原英資・藤井清美翻訳、ダイヤモンド社、2003年)
ほか

略歴 PROFILE
ジョージ・ソロス George Solos
(1930-)
ハンガリー生まれ。ナチスの迫害から生き残り、17歳で渡英、26歳で渡米。ウォール街の証券会社勤務を経て、1973年に「ソロス・ファンド・マネジメント」を設立し、急成長を遂げる。1990年代にはソロスの一言が市場を左右するといわれるほどの投資家へ。一方で東欧やアフリカ、アジアでの文化・科学研究を支援し、世界各地にオープン・ソサエティ・ファンドという財団ネットワークも構築している。



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